コストと安全性を両立せよ、と文系はいつた

という話はよく聞く(ケータイ電話のデザイン競争とか。ぼくは技術者の人間に同情するばかりである)。

http://d.hatena.ne.jp/essa/20070814/p1

この記事は最初読んだときまるで分からなかったのだが、

id:xevra いい視点。技術者は「ヤバイ可能性がある」としか言えないが、文系はこれを「技術者は危険とは言ってない」と報告書に書ける。文系は金と権力にしか興味ないから怖いよなぁ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/essa/20070814/p1

というブックマークコメントを見て、ようやく合点がいった。それは確かに恐ろしすぎる。*1


あと思い出したのがこのエントリー

 衛星はマンションではないので、必要なのは建築の知識ではない。衛星開発を理解するために必要なのは工学系の素養である。

 1998年9月から10月にかけて情報収集衛星導入を議論した政治家達には、理系の教養同様に工系の教養も欠けていた。このために、無理のある導入スケジュールにゴーサインを出してしまったのだ。

 理工系とひとくくりにされがちだが、理と工の差は、通常想像されるよりもはるかに大きい。理学は自然を理解することを目的とする学問で、その基本には「妥協なき真理の追究」という態度がある。それに対して工学は、理解した自然の力を応用する学問であり、基本にあるのは「いかに高いレベルで妥協するか」という精神だ。

 自動車の設計を考えてみよう。自動車の基本は「走る、曲がる、止まる」だと言われる。この基本ですら、「走る」と「止まる」はお互いに矛盾している。このように工学では一つの機械に対する矛盾した要求を、高いレベルで妥協させることが必須だ。

 情報収集衛星の導入にあたって、「できます」というプレゼンテーションを行うメーカーに「本当にできるのか」という質問が飛んだであろうことは想像に難くない。しかし工学の基本が理解できていたならば、質問は「開発にあたって矛盾する要求はなにか」になっていたはずだ。

 続けて「その矛盾は、想定される開発期間内に目標を達成できるレベルで妥協できるのか」と質問したならば、衛星開発における問題点をメーカーから聞くことができたはずである。しかし、情報衛星プロジェクトチームの提言の中には、そのように議員自らが頭を使って、質問をしたと思われる記述は見あたらない。ここでも「プロが言うのだから」と説明を鵜呑みにしたのであろう。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/searchdiary?word=%C3%E6%B9%F1%A1%A1%C0%AF%BC%A3%B2%C8%A1%A1%A5%ED%A5%B1%A5%C3%A5%C8&.submit=%B8%A1%BA%F7&type=detail

でも、昨今の中国を見てると、政治家なんてあんま関係ないんだなぁと思ってしまうわけです。


極論を言ってしまえば「真に安全な原発など存在しない」とも言えるわけで*2、そのことを充分考慮して、原発は運営されてるのだと思うし、その中で、「少しでも危険がある=原発は危険だから反対」と二値論理*3で考えるのが文系論理で、少しでも安全性を高めようとするのが理系論理なのかなぁとも思うわけですよ。

*1:但し、発電所が物理的に崩落したときのマニュアルが無かったとしたらの話だが。

*2:建物は老朽化するわけだし、運営するのは人間だし

*3:自分ワードで、結論が2つしか存在しない論理。即ち、原発は危険か安全か